2012年06月30日
すべてを射抜く、瞳。
今日、とある場所でひとりの少女に出会った。
・・・本題に入る前に、少しだけその「馴れ初め」を。
私がはじめてその少女を見たのは、本屋の写真集コーナー。
佐渡にお嫁に行くことが決まった少しあとだっただろうか、詳しくは忘れてしまったけれど
ともかく何かでその存在を知り、
本屋に立ち寄った際に「そういえば」と思い出して探したのだった。
少女の名は「未来ちゃん。」
彼女は佐渡に住むごくごく普通の少女。
ちょっと昭和っぽいイメージを醸し出しているおかっぱ頭の女の子は、その佐渡の自然の中で
みんなと同じように笑ったり、食べたり、泣いたり、寝たりしている。
しかし彼女の持つふたつの瞳、これこそが一度見たら忘れることができない、不思議な不思議な魅力を放っているのだ。
時に愛らしく、しかし時にはとても野性的な鋭さをみせる。
その表情の豊かさは、マネしようと思っても到底かなわない、作ることのできない「純粋さ」で満ち溢れている。
http://kawashimakotori.com/work/
(未来ちゃん のところで幾つか見られます)
で、本日その「未来ちゃん」がなんと突然目の前に現れた。
「あれ食べたい」「これ食べたい」と言いながら、ちょっとしたら飽きてそこらへんを動き回る。
常に自分の興味があるものを求めてきょろきょろしている。
そんな彼女とバチッと視線が噛みあった瞬間があった。
じーっと私の目を見つめる未来ちゃん。
眼光の鋭さに負けそうになった私は、彼女の顔に向かって微笑みかけた。
しかしその笑顔の下に隠されたミーハーな下心のようなものを彼女は一瞬にして見抜いたのか、
・・・にこりともせずにぷいっと顔をそむけて
またパタパタとせわしく動き回りはじめた。
その純粋な瞳をとらえたのは、お店の中にあったメダカのおよぐ鉢。
未来ちゃんはその淵に手をかけ、水面に顔がついてしまうのではないかというほどの勢いで思いっきり顔を突っ込み
さっきまでのせわしなさが嘘のように、一心不乱に水の中をのぞきこみ続けた。
誰に見られようがかまわずすいすいと泳ぎまわるメダカたち。
未来ちゃんの純粋な目を何より引きつけたのは、純粋に生きる小さな命そのものだったようだ。
・・・本題に入る前に、少しだけその「馴れ初め」を。
私がはじめてその少女を見たのは、本屋の写真集コーナー。
佐渡にお嫁に行くことが決まった少しあとだっただろうか、詳しくは忘れてしまったけれど
ともかく何かでその存在を知り、
本屋に立ち寄った際に「そういえば」と思い出して探したのだった。
少女の名は「未来ちゃん。」
彼女は佐渡に住むごくごく普通の少女。
ちょっと昭和っぽいイメージを醸し出しているおかっぱ頭の女の子は、その佐渡の自然の中で
みんなと同じように笑ったり、食べたり、泣いたり、寝たりしている。
しかし彼女の持つふたつの瞳、これこそが一度見たら忘れることができない、不思議な不思議な魅力を放っているのだ。
時に愛らしく、しかし時にはとても野性的な鋭さをみせる。
その表情の豊かさは、マネしようと思っても到底かなわない、作ることのできない「純粋さ」で満ち溢れている。
http://kawashimakotori.com/work/
(未来ちゃん のところで幾つか見られます)
で、本日その「未来ちゃん」がなんと突然目の前に現れた。
「あれ食べたい」「これ食べたい」と言いながら、ちょっとしたら飽きてそこらへんを動き回る。
常に自分の興味があるものを求めてきょろきょろしている。
そんな彼女とバチッと視線が噛みあった瞬間があった。
じーっと私の目を見つめる未来ちゃん。
眼光の鋭さに負けそうになった私は、彼女の顔に向かって微笑みかけた。
しかしその笑顔の下に隠されたミーハーな下心のようなものを彼女は一瞬にして見抜いたのか、
・・・にこりともせずにぷいっと顔をそむけて
またパタパタとせわしく動き回りはじめた。
その純粋な瞳をとらえたのは、お店の中にあったメダカのおよぐ鉢。
未来ちゃんはその淵に手をかけ、水面に顔がついてしまうのではないかというほどの勢いで思いっきり顔を突っ込み
さっきまでのせわしなさが嘘のように、一心不乱に水の中をのぞきこみ続けた。
誰に見られようがかまわずすいすいと泳ぎまわるメダカたち。
未来ちゃんの純粋な目を何より引きつけたのは、純粋に生きる小さな命そのものだったようだ。
2012年06月25日
夏の使者
ふと目を離した1分ほどのスキに、
どこからかやってきてがっしりとしがみついていた御仁。

しばらく観察していたのだけれど、まったく動こうとする気配がない。
スーパー行きたいんですよ~、とカギをがしゃっとあけたらようやく飛び立って
しばらくどこに止まろうかと思案しているようだった。
最終的に行き着いたのは玄関のドア。
またがっしりとしがみついて、落ち着いた。
ならば番蜻蛉になってもらおうと、
「よろしくね!」と声をかけて出かけた。
そして帰ってきたら
職務放棄して行方不明・・・
また遊びに来てねえ。
どこからかやってきてがっしりとしがみついていた御仁。
しばらく観察していたのだけれど、まったく動こうとする気配がない。
スーパー行きたいんですよ~、とカギをがしゃっとあけたらようやく飛び立って
しばらくどこに止まろうかと思案しているようだった。
最終的に行き着いたのは玄関のドア。
またがっしりとしがみついて、落ち着いた。
ならば番蜻蛉になってもらおうと、
「よろしくね!」と声をかけて出かけた。
そして帰ってきたら
職務放棄して行方不明・・・
また遊びに来てねえ。
2012年06月24日
古楽器もいいじゃない
気持ちよく晴れ渡った土曜の昼下がり、ちょっと珍しいコンサートに行ってきました。

チェンバロの二重奏。
チェンバロ自体、生でめったに聴くことがないのですが
この珍しい編成を近場で見られるとあって、興味津々で向かいました。
会場はキリスト教会。これまためったに入る機会のない場所です。
(友人の結婚式のチャペルには数えきれないくらい入ったけれど・・・)
今回の演奏者のおひとり、笠原さんの言葉をお借りすると
「チェンバロは決して楽器自体から出る音は大きくないけれど、それを演奏する会場、空間も含めて一つの楽器である」
だそうで、確かに教会の清涼な空気感や雰囲気が楽器の魅力をより引き出してくれていたのが分かった。
プログラムは楽器の特性もあるのでしょうがほぼバロック中心、曲によっては弦楽モノの編曲もあり。
5名の作曲家の作品を取り上げていましたが、やはりバッハの緻密で精巧で・・・なんというか心にすーっと自然に入ってくる和音進行の心地よさというか、ともかく群を抜いていました。
逆に、私なんかもそうですが演奏する立場に立ってみると、その曲の素晴らしさゆえに終わりの見えない(=奥深い)、何か見えざる荘厳な壁のようなものをなかなか越えることのできない難しさ、
それも見ていて感じました。
(勿論お二人はプロですから、我々よりもっともっと高い次元で挑まれているのですけれども)
個人的な感想を言えば、アンコールのバッハのメヌエットは本日の白眉でありました。
多彩な装飾音符やアドリブ(?)を散りばめた演奏は、チェンバロという楽器の魅力を大いに引き出す名演で
まるで両の手から綺麗な丸い宝石が溢れてこぼれ落ち、きらきらと光を受けて輝いているような・・・
当時の貴族たちの煌びやかな情景が目の前に浮かんでくるようでした。
終演後、近くで楽器を拝見することができました。

二台のチェンバロを、奏者が向かい合うような形で配置しています。
木の風合いを生かした趣きのある鍵盤、味があってステキ。二段になっていますが、上段と下段で音色が違うのですね。
たとえばバッハの中に多く出てくる反復の場面など、上と下で使い分けをされていました。
板をどけた状態の中身を見せていただくと

ハープのように弦がはられ、その間に赤や白の布が貼られた木片が配置されています。
この木片には小さな小さな突起がついており、それが弦をはじいて音を出す仕組み。
鍵盤の上下段で弦をはじいている場所が異なるために、音色の違いが出てくるのでした。
拡大図。手前と奥で二段になっているんですねー。

このあと鍵盤を少し触らせていただきました。
ピアノよりも鍵盤自体が一回り小さい上に、タッチが軽い。
構造上、ピアノと比べると指先の感覚もより繊細になるであろうことは想像に難くない。実際にお話も伺いましたが、指先が五感というか六感というか、そんな印象なんだそうです。
チェンバロを始める方はとっかかり自体はピアノからという方が多いのではないかと思いますが、
こりゃ全く違う楽器です。極めるにはかなりの鍛錬がいりそうだ・・・
それでも魅せられてしまう気持ちはよく分かります。
そういえば私も一時期、フルートトラベルソ(バロックフルート)本気で欲しいといっていたときがあったなあ。
買っても絶対消化しきれないだろうと諦めたのだけれど、
今回このような演奏会を聴いて「うーんやっぱ欲しい・・・」と思ってしまった。
いつかブランデンブルクの5番、死ぬまでに吹いてみたい!!
チェンバロの二重奏。
チェンバロ自体、生でめったに聴くことがないのですが
この珍しい編成を近場で見られるとあって、興味津々で向かいました。
会場はキリスト教会。これまためったに入る機会のない場所です。
(友人の結婚式のチャペルには数えきれないくらい入ったけれど・・・)
今回の演奏者のおひとり、笠原さんの言葉をお借りすると
「チェンバロは決して楽器自体から出る音は大きくないけれど、それを演奏する会場、空間も含めて一つの楽器である」
だそうで、確かに教会の清涼な空気感や雰囲気が楽器の魅力をより引き出してくれていたのが分かった。
プログラムは楽器の特性もあるのでしょうがほぼバロック中心、曲によっては弦楽モノの編曲もあり。
5名の作曲家の作品を取り上げていましたが、やはりバッハの緻密で精巧で・・・なんというか心にすーっと自然に入ってくる和音進行の心地よさというか、ともかく群を抜いていました。
逆に、私なんかもそうですが演奏する立場に立ってみると、その曲の素晴らしさゆえに終わりの見えない(=奥深い)、何か見えざる荘厳な壁のようなものをなかなか越えることのできない難しさ、
それも見ていて感じました。
(勿論お二人はプロですから、我々よりもっともっと高い次元で挑まれているのですけれども)
個人的な感想を言えば、アンコールのバッハのメヌエットは本日の白眉でありました。
多彩な装飾音符やアドリブ(?)を散りばめた演奏は、チェンバロという楽器の魅力を大いに引き出す名演で
まるで両の手から綺麗な丸い宝石が溢れてこぼれ落ち、きらきらと光を受けて輝いているような・・・
当時の貴族たちの煌びやかな情景が目の前に浮かんでくるようでした。
終演後、近くで楽器を拝見することができました。
二台のチェンバロを、奏者が向かい合うような形で配置しています。
木の風合いを生かした趣きのある鍵盤、味があってステキ。二段になっていますが、上段と下段で音色が違うのですね。
たとえばバッハの中に多く出てくる反復の場面など、上と下で使い分けをされていました。
板をどけた状態の中身を見せていただくと
ハープのように弦がはられ、その間に赤や白の布が貼られた木片が配置されています。
この木片には小さな小さな突起がついており、それが弦をはじいて音を出す仕組み。
鍵盤の上下段で弦をはじいている場所が異なるために、音色の違いが出てくるのでした。
拡大図。手前と奥で二段になっているんですねー。
このあと鍵盤を少し触らせていただきました。
ピアノよりも鍵盤自体が一回り小さい上に、タッチが軽い。
構造上、ピアノと比べると指先の感覚もより繊細になるであろうことは想像に難くない。実際にお話も伺いましたが、指先が五感というか六感というか、そんな印象なんだそうです。
チェンバロを始める方はとっかかり自体はピアノからという方が多いのではないかと思いますが、
こりゃ全く違う楽器です。極めるにはかなりの鍛錬がいりそうだ・・・
それでも魅せられてしまう気持ちはよく分かります。
そういえば私も一時期、フルートトラベルソ(バロックフルート)本気で欲しいといっていたときがあったなあ。
買っても絶対消化しきれないだろうと諦めたのだけれど、
今回このような演奏会を聴いて「うーんやっぱ欲しい・・・」と思ってしまった。
いつかブランデンブルクの5番、死ぬまでに吹いてみたい!!
2012年06月17日
かめ。
皆様こんにちは。私は生きています。
もう一カ月もあいてしまったのか・・・
バタバタした日々が続いておりますが、昨日久々に主人とドライブに行ってきました。
こういうときに限って雨だったりしますが、もはや天気になど構っていられないのです。
佐渡の西側、いわゆる「外海府海岸」は
日本海の荒波をたえず受け続けているために、長い時間をかけて作られた多くの奇岩を楽しむことができます。
その中でもスケールの大きさで特に有名なのが、この「大野亀」です。佐渡の地図でいえば、ちょうど一番上の突端付近に位置しています。

大きな山のようにも見えますが、実はこれ一枚岩。海抜167メートルという信じられない大きさなのです。
案内板によると、
『「亀」は「神」、アイヌ語の「カムイ」に通ずる神聖な島を意味』しているのだそうですが
近くに寄るほどにその存在感、空気感には圧倒させられます。
さてこの大野亀の初夏の風物詩といえば、トビシマカンゾウの大群生。
普段は緑一色の亀のふもとが、黄色い花で埋め尽くされるのです。
山形県の飛島、酒田海岸、そしてこの佐渡だけに生息するトビシマカンゾウ。
6月のほんの短い間しかお目にかかることができず、GWや夏休みといった観光シーズンからも少々外れているし
佐渡に住んでいても「さあ見に行くぞ!!」と思わないとなかなか行けないイメージもちょっとあったりして。

上の方まで細い道が続いていて、登ることもできるようです。(悪天候のため断念)
花が咲き誇る麓の丘には遊歩道が整備されており、黄色い花を楽しみつつ大野亀を色々な角度から楽しめます。見る角度によってまた趣きが変わってくるのも面白いところ。
下を見下ろせば断崖絶壁、眼下に広がる海の水は美しく澄んでいて海藻がゆらゆらと波に揺られています。幾分風が強く、水面がさーっとあおられていくのがよく見える。なんだか風のかたちを目にしたような気分。


少し遠くに目をやると、佐渡にいるもう一つの亀「二ツ亀」をのぞむことができます。
こちらの亀さんは2匹、長さは300メートルというこれまた壮大なスケール。
潮がひくと砂浜の道が現れ、対岸から歩いていくことができる・・・そうですが、4月の暴風の際に吹っ飛んだか流されたかしたという噂を聞きました。海水浴シーズンには修復(?)されるんでしょうか。

ひとしきり遊歩道を一周した私たち。駐車場を挟んですぐのところにある「おおのがめロッジ」で一休みしていたのですが
↓(大野亀を目の前にのぞむことができる)

ここで豪雨・強風到来!なんというギリギリのタイミング・・・
その雨の中を遊歩道にむかって歩いていったお二人がいらっしゃったのですが、大丈夫だったかな?
佐渡にいるからには、夏になったら一度海に入りにいきたいねえ、という主人の提案に
高校の授業以来水着というものを着たことの無かった私は戦々恐々としております。
夜のテレビで「綺麗な足をつくるには」というような特集をしていたので、必死で見てしまった。
さあ一体どうなることやら
もう一カ月もあいてしまったのか・・・

バタバタした日々が続いておりますが、昨日久々に主人とドライブに行ってきました。
こういうときに限って雨だったりしますが、もはや天気になど構っていられないのです。
佐渡の西側、いわゆる「外海府海岸」は
日本海の荒波をたえず受け続けているために、長い時間をかけて作られた多くの奇岩を楽しむことができます。
その中でもスケールの大きさで特に有名なのが、この「大野亀」です。佐渡の地図でいえば、ちょうど一番上の突端付近に位置しています。
大きな山のようにも見えますが、実はこれ一枚岩。海抜167メートルという信じられない大きさなのです。
案内板によると、
『「亀」は「神」、アイヌ語の「カムイ」に通ずる神聖な島を意味』しているのだそうですが
近くに寄るほどにその存在感、空気感には圧倒させられます。
さてこの大野亀の初夏の風物詩といえば、トビシマカンゾウの大群生。
普段は緑一色の亀のふもとが、黄色い花で埋め尽くされるのです。
山形県の飛島、酒田海岸、そしてこの佐渡だけに生息するトビシマカンゾウ。
6月のほんの短い間しかお目にかかることができず、GWや夏休みといった観光シーズンからも少々外れているし
佐渡に住んでいても「さあ見に行くぞ!!」と思わないとなかなか行けないイメージもちょっとあったりして。
上の方まで細い道が続いていて、登ることもできるようです。(悪天候のため断念)
花が咲き誇る麓の丘には遊歩道が整備されており、黄色い花を楽しみつつ大野亀を色々な角度から楽しめます。見る角度によってまた趣きが変わってくるのも面白いところ。
下を見下ろせば断崖絶壁、眼下に広がる海の水は美しく澄んでいて海藻がゆらゆらと波に揺られています。幾分風が強く、水面がさーっとあおられていくのがよく見える。なんだか風のかたちを目にしたような気分。
少し遠くに目をやると、佐渡にいるもう一つの亀「二ツ亀」をのぞむことができます。
こちらの亀さんは2匹、長さは300メートルというこれまた壮大なスケール。
潮がひくと砂浜の道が現れ、対岸から歩いていくことができる・・・そうですが、4月の暴風の際に吹っ飛んだか流されたかしたという噂を聞きました。海水浴シーズンには修復(?)されるんでしょうか。
ひとしきり遊歩道を一周した私たち。駐車場を挟んですぐのところにある「おおのがめロッジ」で一休みしていたのですが
↓(大野亀を目の前にのぞむことができる)
ここで豪雨・強風到来!なんというギリギリのタイミング・・・
その雨の中を遊歩道にむかって歩いていったお二人がいらっしゃったのですが、大丈夫だったかな?
佐渡にいるからには、夏になったら一度海に入りにいきたいねえ、という主人の提案に
高校の授業以来水着というものを着たことの無かった私は戦々恐々としております。
夜のテレビで「綺麗な足をつくるには」というような特集をしていたので、必死で見てしまった。
さあ一体どうなることやら
